僕は外人コーチ第9回 − スポーツと体育
(月刊漕艇1997年3月号)
アマチュアスポーツの発祥は英国の貴族階級、とくにその子息の通うパブリック・スクールから起こったといわれています。それは学校単位での教育としての体育という発想につながり、前世紀から今世紀にかけての日本での富国強兵政策の概念にぴたりとー致して「心身を鍛える」とのうたい文句のもとに学校体育全盛の時代を迎えるに至りました。強力なチームを持つ集団は尊敬すべき優れた心身を持つ集団として人々に認知されることになり、いきおい学校や企業は「認知されること」に意義を見出してチームを所有するようになりました....。
私の偏見に満ちた日本体育史のー側面です。
英国では労働者階級の余暇の増加にしたがって、既存のプロサッカーチームの外郭に、あるいは独立に、地域住民の集う非営利スポーツクラブの隆盛を見ましたが、日本では依然として学校、企業での体育が主です。
さてさて「体育」は「スポーツ」と同義ではありません。体育は Physical Education であって、Spoot(s)とは似て非なるものです。この相違を踏まえて全回はスポーツと人間との関わりについて思案したことを書いてみようと思います。
●子どもにスターはいらない
カナダに来て間もない頃、ある少年バスケットソフトボールチームの試合を見たことがあります。両チームとも頻繁にメンバー交代をして、ベンチにいた選手がすべてあるー定以上の時間コートに立っていることに気が付きました。片方のチームが、そのゲームでー番体の大きい、素人の私が見てもわかる優秀な選手を引っ込めたときは、思わず、「えっ?!」と声をあげてしまいました。彼らはそのゲームに勝つことだけを目的としてプレーをしているのではなく、ゲームをみんなで楽しくやろうとしているのだな、とわかりました。
NCCPのバスケットボールのテクニカル・レベル1の「発育発達モデル」の中で、12歳以下のチームのゲームは地域内のリーグ戦に限定されるべきであると推奨されていることは後に知りました。カナダ東西の大都市であるトロントとバンクーバーに、NBAのプロチームができた今も、このように健康的な取り組みが続いていることを願つていますが、その後どうなったかはよく知りません。
地域スポーツの普及度の高さは、欧米への遠征のたびに感じていたことです。日本国内のロウイングの世界では馴染みの薄いこのシステムですが、私はその長所をもっと積極的に導入するべきだと考えています。
●スポーツは精神修養じゃない
私は飽きっぽい性格が災いして、高校入学時に口ウイングをはじめるまでに、いろんなスポーツをやってみてはやめ、やってみてはやめ、を繰り返していました。会思い起こしてみると、ロウイングを含めてどのスポーツもいちばん最初はおもしろく感じたのに、その後にやって来る毎日毎日退屈でしんどい練習ばかり、たまの試合には自分よりずっと前から所属している上手な子だけが出場する、というのがすぐにイヤになってしまいました。ロウイングだけは意地でも続けようと心に決め、高校生の私はやめたい病と毎日戦いながら練習し、いつの間にか今まで続けることになりました。私がもうすこしばかり潔い男だったら、私はロウイングが、ひいてはスポーツが嫌いなまま人生を送っていたでしょう。
学校の名誉のためにときには故障を押してまで出場する主力選手と、その陰でほとんど試合らしい試合に出ぬままアスリートとしてのキャリアを終える補欠選手....。これはスポーツではなく、何かの精神修養です。それをもって「教育」と言えるのでしょうか。私は、さきの少年バスケットソフトホールチームの方がよほど教育的だと思います。
●春と秋でスポーツを変える
欧米諸国の各スポーツクラブ、少年少女のチ一ムは活動期間をシーズンで区切り、他種目のクラブと「棲み分け」をしています。10歳そこそこの子供がすでにひとつの種目にー年中全力を投入する、ということは、フットボール、アイスホッケーなどのプロリーグのあるスポ一ツ以外ではまれなことで、子供たちはいるんなスポーツをしながら育ちます。
たとえば春はロウイング夏は水泳、秋はバスケットボール、というようにです。
日本にもおなじみのドリュー・ハリソン氏の愛娘であるエミリーさんは、15歳で、1994年冬の月・木はバレーボール、火・金は陸上競技、水はダンスという生活をしていたそうです。身体のバランスの取れた発育や幅広い人間関係の構築に有効なシステムだなと私は思いました。(いいことずくめ、というわけではありません。ある著名な日本人バレーボールコーチは私に、北米の子供たちはバレーに集中する時間が少なすぎて、その時期に体得すべき微妙なボールコントロール技術が身に付かない、と言明されました。)
彼らは成長していくに従って、多くの選択肢の中から自分の人生の中におけるスポーツの位置づけを自分で選択していきます。どんな種目をどのくらい真剣に行うか。人によってそれはスポーツではなく芸術的分野、あるいはもっと別の活動であるかもしれません。時間も、参加する場も、基本的に自分の責任です。トライしてみたい人にはその場が多く用意されていますし、みな平等にそうやってスポーツに参加しています。一部の大学対校選手、カナダ代表選手、あるいはプロ選手などは例外と言えますが、そういった人達は自分でその立場を勝ち取ったわけです。
●大林素子選手に同情する
日本で口ウイングをしたかったら、乱暴に言えば、10代でなければなりませんし、そういう学校を選ぶ以外にありません。ここですでにスポーツに対する「自己責任」の枠をはみ出してしまいます。
「ボートは好きだが、H大漕艇部は嫌いだ。」といって退部して行った同輩・後輩がたくさんいました。彼らがもし本当にロウイングが好きだったなら、そして誰もが気軽に参加できるようなクラブ組織があったなら、彼らは口ウイングをやめずにすんだかもしれません。
バレーボールのスター選手、大林素子選手が日立を解雇されたとき、彼女は練習をさせてもらえる体育館さえなく、しばらく恩師の好意で出身の高校で練習をしたそうです。こんな例に代表されるように、日本の多くのアスリートには参加する場や、そこに投入するエネルギーの量を選択する権利がすいぶん制限されています。「あのコーチは気に入らないから隣町のクラブに移籍する」なんてことはもとより不可能ですし、ロウイングに多大な興味を持っているある高校生も、ボート部のない大学に入学したら、もうオールを握るチャンスはほとんどないでしょう。
性別、年齢、職業を間わす参加できるクラブをあちこちに作ることができたら、という夢を私は持っています。競技としてのロウイングは成熟した肉体と精神を必要とするエアロビック・パワー・スポーツです。また、日常と隔絶した水上へ一人で、あるいは仲間とともに漕ぎ出して、それぞれ好きなべースで生涯楽しめるスポーツでもあります。大急ぎで素質を発見して数年の間に徹底的に鍛えなければチャンピオンを作り出せないスポーツや、傷害の危険性を大きくはらむコンタクト(接触)スポーツとは大きく違うのです。「紳士的な」あるいは「大人の」スポーツであるといってもいいかもしれません。
●名もないアスリートがまぶしい
世界屈指の巨大な競技人口を誇る若年層の口ウイングに較べ、シニア日本代表の国際的競技力がなかなか上がらないのは、ひとりひとりの漕歴が短いことが大きな原因のひとつだと私は思います。3年、4年といった限られた期間ではなく、アスリート、そして人間としての将来を見据えた長期的視点でスポーツに参加できる場も必要なのではないでしょうか。
いろんなスポーツ種目を経験した、優れた基礎体力を持つ人々を口ウイングに招き入れて、そんな中から日本のロウイングの歴史をひっくり返すような大選手が生まれたり、あるいは生涯を通じて口ウイングを楽しむ人が生まれる、このようなことが実際に起きたら、それは日本の口ウイングにとって大きな発展だとは思いませんか?
日本における口ウイングは、そしてスポーツは、どんな姿を選択するべきなのでしょうか。言い換えれば、我々はとんな哲学をもってスポーツに接するべきでしょうか。スポーツに関わる我々は、今それを真剣に考えなければいけないと思います。私にとって、高校、そして大学でのロウイングはとても大切な思い出です。学校や先輩たちの絶大なサポートのもとで、学校のプライドを自ら背負って競技することの誇り、濃密な時間を共有した仲間たち、忘れられないことばかりです。その素晴らしさが輝き続ける限り、学校体育の存在意義はゆるがないでしょう。ですが私は、ただロウイングがしたいがために、時間とお金を自分でやりくりして、きたない服をまとい、中古のボートで目の前を駆け抜けて行く名もないアスリートたちのタフな姿にもまぶしさを感じてしまうのです。
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この稿おわり