「ノルウェー王国功労勲章叙勲」のご報告とご挨拶

昭和32年入学 斎藤 敏彰


 この度、ノルウェー王国より「ノルウェー王国功労勲章」の叙勲を受け、併せて「騎士一等」の称号を国王より賜りました。

 私にとっては身に余るこの叙勲に、友人・知人の皆様から有り難いお祝いのお言葉を頂きました。
 わけても、茨水会の先輩会員の方々からは、「我が北大ボート部OBの誉れ、我が茨水会の栄誉」とこれまた恐縮至極のお祝いの言葉を頂き、そしてまた暖かい励ましを頂戴しました。
 紙面をお借りし、ここに厚く御礼申し上げます。

「それにしても、お前が勲章を、しかも外国から勲章を貰うとはどういう理由(わけ)だ? 事の次第を報告しろッ」と先輩諸氏からご下問頂きました。
 茨水会・会員の皆様へのご挨拶をかね、下記、ご下問への報告とさせて頂きます。

 日本で勲章と言うと、功成し遂げた方、大企業の会長、各種団体の長の方々のみが戴けるものと思っていた私にとって、私のような零細企業の人間がこのような名誉ある叙勲の機会を得るということは、まことに思いもかけぬことでした。
 と同時に、このようなフェア−な評価をしてくれたノルウェーと言う国との長い関係を持てた事を心から喜んでいます。

 初めてノルウェーのオスロを訪れたのは、1971年の5月の土曜日の夕方でした。その当時のノルウェーでは、土曜日の午後・日曜日に外出する人はほとんどおらず、家で静かに過ごすのが一般的であったため、町の中心街には殆ど人影が見えず、まるでゴースト・タウンのようで、買い物は日曜日と思い込んでいた日本人の私としては、日本の真冬のようなドンヨリとした低くたれこめた曇り空のせいもあって、とんでもない所に来てしまったと言うのがこの国の第一印象でした。
 まさか、そんな国とそれから30年も付き合うことになろうとは、思いもよらぬことでした。

 その前の年の暮れに、北大を出てから9年間勤めていた極洋捕鯨(株)を退社し、文化大革命最中の中国貿易で知り合った英さんが設立して半年の東海水産貿易(株)に請われて転職しました。

 今から思うと、若いというのは本当に無謀なことができるもので、新しい会社は、資本金1,000万円で社長をはじめ総員4人。その当時は五十嵐冷蔵という冷蔵庫会社の屋根裏の狭い部屋にあり、そこへ肩書きも、給料も決めずに入ってしまいました。
 私も若かったのですが、一回り年上の英さんも若かったのでしょうか、未だ海のものとも山のものとも、先行き見えない出来立ての会社にも拘わらず、二人で同じ中国の仕事をしても仕方ないから、どこか中国以外の国で仕事を探そうと言うことで、私がヨーロッパを中心に何か新しい仕事を探すため18ヶ国を渡り歩くこととなりました。
 その80日間の旅の中で訪れた国の一つがノルウェーでした。

 ああ言うのを直感と言うのでしょうか、80日を掛けて廻った18ヶ国の中でなんとなくノルウェーと言う国に引かれるものを感じ、帰国してから、ノルウェーに対し本格的なアプローチを始めました。

 当時、アイスランドからはシシャモの輸入が始まっていました。 それまで北海道からの高級土産品であったシシャモが、輸入原料を使った製品として、東京を中心とした消費地で大衆品として受け入れ始められており、地域的にも同じ北極圏に属するノルウェーでも漁れるのではないかと思い、この魚に焦点を絞り、1973年から本格的な買付けに入りました。

 買付けに入るといっても、なにしろ東海水産貿易は中小企業ですし、極洋の頃のように、隣の席の女の人にタイプを叩いてもらって、それを経理に持ちこめば、L/Cが自動的に開けたというのに、東海水産では簡単に開くことができないことが判り始め、買付けを開始する前にジョイントして、この事業に取り組んでくれる会社の選択から始めなければなりませんでした。

 シシャモの事業は3年ほどで軌道に乗せることができ、名ある大手商社と肩を並べてノルウェーの仕事ができるようになりました。

 まだその当時は、一般のノルウェーの人たちには日本人は馴染みがなく、地方都市へ行くと、必ず子供達がゾロゾロ珍しげに纏わりついてきたものです。
 子供達だけでなく、大人たちも街角などでの立ち話をしばらく止めて、私の顔を無遠慮に見ていたものです。

 その後、ノルウェー人との付き合いが深まる中で、甘エビ・ニシン・サバ・赤魚と次々と新商品の開発をすることができ、ノルウェー水産貿易の業界の中で「東海水産」と言う名前が定着するようになりました。

 甘エビの開発は、まったくの偶然から始まりました。 ある日、シシャモの冷凍生産を行っていた漁船の船主の家に呼ばれ、ご馳走になった時に、オープン・サンドイッチの上にのせる材料としてボイルのエビが出てきました。殻付のエビをめいめいが勝手に殻をとって剥き身にして、パンの上に載せて、ビールや白ワインと一緒に食べるもので、大変美味しいものでした。
 その殻付のボイルされたエビがどこかで見たような種類のエビだったので、そのラテン名を教えてもらい、日本に帰ってから魚類図鑑をひもといてみると、和名「北国赤エビ」と、いわゆる「甘エビ」と呼ばれ、北海道・北陸などの名物となっているエビと同一の種類であることが判りました。
 学生時代を札幌で送った私ですが、その当時、話には聞いていたものの高値の花の食べ物で、東京では高級料理店での素材の位置にあって、社会人となってからもたまに口に入る機会があれば大いに感激したような高価なものでした。
 もしかすると、これはシシャモ同様に、東京を中心とした大消費地で大衆品として広めることができるのではないかと着手しました。

 この甘エビは今でもスカンジナビアの国々では、パーティー食材としてボイル製品が一般的ですが、それを刺身として使える生冷凍として日本に持ってきて商品化するためには、試行錯誤を繰り返し、私自身現地のトロール船に2回乗り組み、それぞれ4週間を北緯81度の北極海やグリーンランド沿岸などで船上で過ごしました。
 いまでは、甘エビと云う名前は東京近辺の若い人達の間にも当たり前に知られており、どんな居酒屋さんにもメニューとして置かれるようになりました。

 サバは、約20年前に輸入開発した商品ですが、当時の常識としては、このような大衆魚は国産でなければ商品価値を認めてもらえないような環境でしたが、たまたま国内漁獲が不漁となった時サンプルを送ってもらい、家で当時まだ幼かった我が家の子供達に塩焼きで試食させたところ、「美味しい、美味しい」ときれいに平らげたのを見て、これはいけると直感し始めたものです。
 初めの頃は、いわゆるプロの人達から、「国産と比べて、体の模様が違う」とか、色々云われたものですが、今や全国いたるところのスーパー・マーケットの陳列棚に乗っている塩サバのほとんどがノルウェー産となっており、商品名も「ノルウェー産」と明記されていることが多いのを見ると隔世の感を感じます。

 東海水産貿易での仕事が15年経ったとき、4月のある日ノルウェーの取引先である「フリオノール」と言う当時水産王国ノルウェーの冷凍水産物輸出で80%のシェアーを持っていた会社のオスロ本社を訪問していた時、その会社の副社長・貿易部長との懇談の最中に突然、「わが社は、この9月から日本に事務所を開くことに決定した。」との話が出ました。
 これからは仕事の連絡が楽になるなと思い、「誰が日本に行くのか?」と聞いたところ、「本社から人は出さない。日本代表は我々の前に座っている男だ」との答えが返ってきました。

 フリオノール日本代表の役を引き受けて5年間は、損得の商売から離れ、ノルウェー産水産物の対日販売促進の役目を担い、今まで競争相手であった日本の各大手商社とのお付き合いを通じて、多くの方との巡り合いを深めることができました。

 ノルウェーの国の政策転換に伴い、それまで輸出ライセンスで守られていたフリオノールも従来の商権が縮小し、日本代表事務所を続けることが無理な状態となり、フリオノール代表事務所を引き受ける時に、たまたま設立しておいた「フロスト」の活動を本格的に行うことにし、現在の場所の築地の脇の入船に小さな事務所を開きました。
 この十年間は、バブルの崩壊、それに伴う銀行の貸し渋りなどに直面し、正直言って「良く続けられたものだ」と自分でも思っています。

 中小・零細企業に席を置きながら、これだけ長い間、ノルウェーとの付き合いを継続できたのは、その時その場に応じて私が活動することができる場を与えて下さった日本・ノルウェー両国の人々の存在があったからで、その方達には心からの感謝の念を感じています。

 現在は、家内に仕事を手伝ってもらいながら仕事を行っておりますが、仕事のみならず両国間の交流に、後数年地球の反対側との往復を体の状態が許してくれるまで続けていく積りです。
 最後になりましたが、私の生き様の基礎ができたのは、間違いなく北大ボート部にいた時です。学校を卒業後もいろいろ教えを受けた方達に巡り会っていますが、やはり決定的な影響を受けたのは大将(堀内先生)です。
 大将は私が入学した時には既にコーチからは退かれておられましたが、たまに茨戸に来られて、モーター・ボートの上から云われた言葉、全体会議の席での言葉、全日本前の戸田での言葉と、その多くが、その後何かにつけ私の頭の中に帰来し、自分を奮い立たせてくれました。
 また、大将の言葉はある種の禅問答のようなところがあり、当時若輩の私には正直云って理解に苦しむようなものもありましたが、その解釈は年々自分が色々な経験をし、年を重ねてくるごとに私自身の中で変化し、より充実したものとなって育ってきています。
 とりわけ「自我の拡大に努めろ」と云う言葉は、いまだにその解釈が変化しているものです。このように自分の人生を形成する場−北大ボート部−に席を置くことができたことをつくづく幸せに感じております。
 これからも北大ボート部に携わっていく若い人達が、「そこに存在していて良かった」と感じることのできるボート部であり続けて欲しいと願います。